国道329号
うるま市赤崎(赤崎交差点)−名護市久志(久志北交差点)



赤崎交差点−久志北交差点


赤碕交差点で、国道329号の石川バイパスと石川市街地ルートとが合流し、北へ向かいます。暫くは4車線です。


赤崎交差点の所に、石川警察署があります。


うるま市を過ぎて金武町に入ると、二車線路になります。


「ようこそ 海外雄飛の里 金武町」と書かれた、ウェルカムモニュメント。
明治時代、金武町出身の當山久三氏が、沖縄の人口、経済、食料等の諸問題を解決する手段として、海外移民を提唱したのがきっかけで、沖縄県民の北米、中南米、フィリピン、南洋諸島への移民が始まったそうです。現在でも、世界中の沖縄二世、三世が活躍しています。
この當山久三氏は、沖縄移民の父と呼ばれているそうです。


屋嘉交差点で、県道88号線が、沖縄自動車道屋嘉インター、恩納村方面に分岐します。


屋嘉ビーチのバス停横に、「久高島住民強制疎開之記念碑」が置かれていました。

戦世の故に(イクサユヌ ユイニ)
生まり島はなり(ンマリジマハナリ)
屋嘉村ぬ情き(ヤカムラヌナサキ)
忘してならん(ワシティナラン)
  詠む 並里仙八

昭和20年太平洋戦争により 久高島の住民は強制立ち退き命令によって生まれ島を離れ、疎開先である屋嘉に移り、当地の皆様に大変お世話になった。
よってここに感謝の意を表し、久高島住民強制疎開の事実を、戦争というものの実態と共に後世に永く語り継ぎ、平和を守る礎と資する力となることを願って祈念の碑を建立した。
 2006年9月20日竣工 


その横には、「日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑」も置かれています。

第二次世界大戦中米軍は この地に捕虜収容所を設け 投降した日本軍将兵約7千人を収容して厳しい監視下におかれた。一時捕虜の数が増え 約3千人がハワイに移送された。
その時の将兵等はP.Wと呼ばれ 敗戦の悲哀の中から郷土出身の一兵士により「屋嘉節」が作られた発祥の地でもある。
この収容所は1946年2月閉鎖となり米軍保養所となって1979年8月31日全面返還されるに及んだ。


戦中戦後と重たい歴史のある屋嘉を後に、国道329号は海沿いを走ります。


国道と海との隙間に立つ、スリムな「ゴールデンサンビーチホテル」。「聴こえるよ 波のこえ」と書かれているのですが、この立地は、看板に偽りは無いと思います。

そのホテルの敷地内にある水タンク。
ヤンバルクイナが何故か泣いています。

沖縄自動車道金武インターを通過します。

金武町社交街、新開地の南側の入口です。ここから一方通行路となっています。

アメリカ海兵隊 キャンプハンセンのゲート1です。

ゲートの横にある、米軍管理のバス待合所。建物管理ナンバー2100です。
自販機隣のドアは、通勤時間帯には歩行者用ゲートになる様です。

その前には、基地の門前町として発展してきた、金武町新開地があります。

60年代で時を止めていた様な新開地の街も、化粧直しされて、ずいぶん綺麗になりました。

でも、何か以前と雰囲気が変わってしまった様で。
なんというか、金かけて綺麗にすれば良いというのでも無い様な気もしないではありません。

金武の街を走ります。

キャンプハンセンの戦車橋をくぐると、県道104号線が分岐します。

金武の市街地を抜け、金武大橋を渡ります。

金武大橋が完成する前までの旧道は、現在リュウキュウヒカンザクラが沿道に植えられて、春になると、桜の名所としてにぎわいます。

北に向かいます。

自警団詰所だそうです。

漢那交差点です。ここで宜野座サーバーファーム方面に向かう県道234号線が分岐します。

沖縄自動車道宜野座インターです。

宜野座の街を走り抜けます。

宜野座大橋を渡ります。

先ほど分かれた県道234号線が再び合流してきます。

ところどころに、米軍演習地のゲートを示す看板が見られます。沿道の山々では、米兵さん達が、日夜訓練に励んでいる事でしょう。

空と山と海。
山原(やんばる)路の魅力です。

潟原交差点で、県道71号線が名護市許田方面に分岐します。

久志三叉路で、県道13号線が分岐します。
国道329号は、復帰前、与那原以北の大部分が、軍道及び琉球政府道の13号線でした。
現在その名前は、ここから辺野古までの区間のみに残っています。

暫く坂を登ります。
坂を登りきった久志北交差点から、辺野古バイパスになります。




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