赤田首里殿内小路

崎山馬場ギャラリーから鳥堀交差点方面に左折すると、赤田首里殿内小路(アカタスンドゥンチスージ)になります。


周囲は住宅街です。


路地から子供が飛び出してきそうな道ですね。


赤田首里殿内小路から路地を曲がって少し入った所にある、識名酒造。時雨というブランドの泡盛を造っています。


再び赤田首里殿内小路に戻ります。現在この通り名は殆ど使われていない様です。


赤田クラブ、公民館です。ここが、この通り名の由来となった、首里殿内の跡です。
以下説明文より

琉球王朝時代の高級女神官の一人「首里大阿母志良礼(シュイウフアンシタリ)」の神殿及び住居跡。尚真時代(1477〜1426)、琉球王国の女神組織が整備され、最高女神官「聞得大君(キコエオオキミ)」の下に、首里(シュイ)、真壁(マカン)、儀保(ジーブ)の三人の「大阿母志良礼」が置かれた。三人の「大阿母志良礼」は、聞得大君を補佐して、国王の長寿、国の繁栄、五穀豊穣、航海安全を祈願する他、琉球国中の御嶽(ウタキ)、神女を三分割して所管した。
「首里大阿母志良礼」は、首里の南風之平等(フェーヌヒラ)(現大中、桃原、当蔵、赤田、崎山、鳥堀町地域)をはじめ、斎場御嶽(セーファーウタキ)や、久高島のある知念間切、尚円王統初代の尚円ゆかりの伊是名島など王国祭祀で重要な地域の御嶽や神女(ノロ)を管轄した。
廃藩置県(1879)の後、首里、真壁、儀保の三つの殿内の神殿は天界寺(ティンケージ)跡の一角に移され、1つの建物にまとめられて「三殿内(ミトゥンチ)」と呼ばれた。首里殿内跡は大正初期に払下げられ、敷地の一部は赤田倶楽部(公民館)となり、1921年(大正10年)に結成された首里三箇(赤田・崎山・鳥堀町)の中学生会「三星会」の集会所としても利用された。
赤田町には、旧暦7月16日に弥勒神が町を練り歩く「ミルクウンケー」という行事が古くから伝えられ、この行事を歌ったわらべ歌「赤田首里殿内」広く親しまれている。


みるくウンケーの際、ミルクの神様は、この赤田クラブを出発し、この道を練り歩きます。


この交差点を右折すると、県道82号那覇糸満線「環状2号線」の大角座(ウフカクザ)交差点に向かいます。


何となく良い感じの建物。


交差点の角に井戸があります。地域の井戸なんでしょうね。


「咲元」ブランドの泡盛を造っている、咲元酒造です。


コンクリートの案内柱にかかれた、電話首里十九番というのが、歴史を感じさせてくれます。


誰が詠んだのか、良い詩です。


赤田首里殿内小路は、琉球銀行首里支店の所で、県道29号那覇北中城線の旧道と合流し、終わります。





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