金城町石畳道

赤マルソウ通りより、金城町石畳道が始まります。正式な名称は都市計画道路真玉道線、琉球王朝時代は、現在の米軍那覇軍港に至る真珠道の一部でした。


こちらの道は、王府時代の石畳や石垣が一部残っているそうです。


この道を、琉球王朝時代の国王が冊封使と共に識名園に向かい、庶民が日々の生活で、この道を利用し、戦時中は米軍が掃討作戦を展開し、そして現在は観光客が行き来し、NHKがちゅらさんを撮ったんですね。


ちなみに右側の屋根が、ちゅらさんで古波蔵家として外見が使われた建物だそうです。


内金城御嶽と金城町の大アカギへの入口です。とっても神聖な感じのする場所でした。是非行ってみて下さい。


なおこの地域では、家の改築や建替時、石垣や赤瓦に対する補助金が市から出るそうです。


金城村屋。集会所兼休息所です。1996年築だそうです。ここに掲げられていた文です。

石畳の石
この石をよくご覧下さい。
芋を真二つに切り、平らの部分を上に、半丸の方を下にして土床にねかしたように敷かれている。この石は全て貴重な琉球石灰岩でできている。
一見何の変哲も無いこの石畳が、約500年の間幾多の風雨や戦乱にもめげず今日まで耐えてきた。首里城より南部への要路としての交通のみならず、人々の生活に不可欠な水の確保に重大な貢献をなしたことは特筆すべきことである。
石畳に落ちた雨水は特別に加工された土床により、吸水、浸透、濾過される。また、瓦れき、砂利等を敷くことにより、スーフカと称する用水溝へ注がれ、任意の村井(ムラガー:共同井戸)へと誘導される。
島国で限り有る小数の可動力のみで、長い年月を費やし、失敗を繰り返し、血のにじむ努力を重ね、ついに命の水を口にした。辻々の村井は全て豊富な水で潤った。先人達の高度な土木技法は、現代の技術を以っても難しく、復元に苦慮するところである。
今私達はその石畳の上に立っている。天の恵みと先人達の英知に感謝し、平和がこの「石畳の石」と共に永遠なれと願わずにはいられない。


そういう事を知ると、この石畳の見方が変わります。


金城大樋川(カナグシクウフフィジャー)
金城村屋の隣にあります。以下説明文より。

金城大樋川は金城村の共同井戸で、急な崖の下から二つのかけ樋で地下水を導き出しています。その前には、約10mほど石積みを施し、半月形の貯水池を設けています。さらにその前には、石敷きの広場が作られ、南側には排水溝があります。樋川の周囲の三方は、土留めの石積みがなされ、特に背後は、四段に分けてがっちりと積まれています。
東側の集会所のところは、かってフィージャーモーと呼ばれた広場で、坂道を上下する人馬が樋川の水で喉を潤し、一息入れた場所でした。また、広場から石畳道を挟んだ東側は、薩摩に学び沖縄で最初に和紙を漉いた大見武筑登之親雲上(おおみたけちくどうんへーちん)の屋敷跡で、17世紀の末ごろ、この樋川の水で和紙がつくられたようです。


そんな事する人がいるんですか・・・


石畳道は、古の遺産であると同時に、地域の生活道路でもあります。車も通ります。


先人の素晴らしい技術で作られた石畳道ですが、車の通行に耐えられるのかどうか、心配ではあります。


金城町石畳道は、金城ダム通りで終わります。琉球王朝時代の真珠道は、この先、石畳はありませんが、道としては大部分残っている様です。





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