県道153号線

★県道153号線

起点:浦添市牧港
終点:那覇市首里平良町

総延長:6,915m
実延長:5,813m

愛称
浦添市牧港〜浦添市伊祖県道251号那覇宜野湾線「パイプライン」交点:牧港通り
浦添市伊祖県道251号那覇宜野湾線「パイプライン」交点〜安波茶交差点:浦添城跡通り
安波茶交差点〜経塚交差点:経塚通り

復帰前の状況
琉球政府道153号線

戦前の状況
沖縄県道牧港首里線の一部

琉球王朝時代の状況
全線:国頭・中頭方西海道の一部(浦添街道)
那覇市首里平良〜浦添市仲間:普天間街道の一部
※各線重複


★県道153号線は、次の2ページに分かれています。
1)本線(当ページ)
2)バイパス線


平良交差点−経塚交差点


県道153号線は、平良交差点で県道241号宜野湾南風原線より分岐します。本来はこちらが終点ですが、こちらから入ってみます。
県道153号線は、琉球王朝時代、王府のある首里から浦添城、普天満宮、国頭方面に抜ける主要道だった道がベースとなっています。


那覇市内区間は歩道も無く、センターラインも引けない程の狭い道ですが、交通量は多く、平良交差点を先頭に渋滞気味です。


車が無ければ、住宅地の路地の様ですが、王朝時代は石畳が敷かれた主要街道でしたし、現在も、浦添から首里方面に抜ける重要な道です。拡幅の計画もある様ですが、まだ買収は進んでいない様です。


建て込んだ建物の間を走ります。


途中から片側に歩道が付き、少し広くなります。


浦添市に入ります。入るとすぐに、経塚交差点があります。


経塚交差点−安波茶交差点:経塚通り


経塚交差点から経塚通りという愛称がつけられています。道路は那覇市内区間と違い、二車線に路肩がつき、歩道に街路樹もある立派な道に変わります。


沿道は住宅が多い様です。


沿道にある「経塚の碑」です。以下説明文より。


昔このあたりは、松がおいしげる人里離れた寂しい場所で、ここに巣くう妖怪が道行く人々をたぶらかしていました。今から470年余り前、高野山で修行をした日秀上人が、お経(金剛経)を書いた小石を埋め、その上に「金剛嶺」と刻んだ石碑をたて、妖怪を退治したと伝えられています。その後、経塚は地震や雷にも効き目があり、「チョーチカ、チョーチカ」と言うと収まると信じられる様になりました。
経塚は、東北から沖縄までの日本各地にあります。もともと経典を埋めたものですが、この経塚の様に、小石にお経を書いて埋めたものは「一石塚」と呼ばれています。(浦添市教育委員会)


この地域は、経塚という地名なのですが、この碑が、経塚の地名の由来の様です。470年間も、よく残っていたものです。


経塚の碑の隣にある、いちゃりば兄弟の碑。こちらは、近年完成した区画整理事業を記念して建てられたもので、住民が一致団結して、住みやすい環境を作っていこうという意味が込められている様です。


県道はかなりきついカーブを曲がります。


急カーブを過ぎると、「ちょうちかはし」を渡ります。


橋は、細かなレリーフなど、かなり凝ったデザインになっています。


石橋をイメージして作られていますが、横から見られる場所が殆どありません。
なおこの橋は、一応小湾川という川をまたいではいますが、川を渡る為というよりは、旧道からのルート変更の為の陸橋といった方が良いと思います。


ちょうちかはしの横手に、王府時代の石畳道が再現されています。以下説明文です。

「安波茶橋と石畳道」
安波茶橋と石畳道は、1597年に尚寧王の命で浦添グスクから首里平良までの道を整備したときに造られたと考えられています。首里城と、中頭・国頭方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々の往来で賑わい、国王もこの道を通って普天間宮に参詣しました。
橋は石造りのアーチ橋で、小湾川に架けられた南橋と、支流のアブチ川に架けられた北橋から成ります。深い谷の滝壺の側に巨石を積み上げる大変な難工事だったと思われます。南橋は沖縄戦で破壊され、北橋も崩壊していましたが、平成十年に北橋を修復しました。
橋の下流側には、赤い皿(椀)で水を汲んで国王に差し上げたと伝えられる赤皿ガーがあります。(浦添市教育委員会)


こちらが北橋です。


まだ新しい南橋です。2006年に復元されました。


現在の道に戻ります。
安波茶交差点です。ここで県道38号浦添西原線と交差します。ここで経塚通りは終わります。
なお、尚寧王が1597年に改修したと言われる、首里平良から浦添グスクに向かう道は、この安波茶交差点手前から浦添グスク方面に分岐していったと言われています。普天間街道、国頭・中頭方西街道は、現県道と、重なったり、少し離れたりしながらも、暫く一緒に進みます。


安波茶交差点−パイプライン交点:浦添城跡通り


安波茶交差点から、浦添城跡通りという愛称がつけられています。


途中、浦添城址方面に曲がる道があります。


浦添城跡通りは、途中、王府時代の普天間街道方面が分岐し、国頭・中頭方西海道と共に、坂を下ります。


道端に展望台があります。


ここから、浦添市街と、その向こうの海が見渡せます。下にあるのは、ヤクルトスワローズの春季キャンプ地として有名な浦添市民球場です。


浦添の街を見下ろしながら、県道は牧港を目指して坂を下ります。


浦添大公園の横を走ります。


国道330号をオーバーパスします。


県道251号那覇宜野湾線「パイプライン」との交点です。浦添城跡通りはここまでです。


パイプライン交点−牧港国道58号交点:牧港通り


パイプラインとの交点を過ぎ、伊祖公園横から、牧港通りという愛称がつけられています。


沖縄明治乳業の横を通ります。明治乳業の関連会社です。


隣にあるエムアンドビー株式会社です。沖縄明治乳業株式会社とフォーモスト ブルーシール株式会社とが生産統合する為にたちあげたアイスクリームの製造会社です。会社名の通り、明治ブランドとブルーシールブランドのアイスクリームを作っています。


沿道は住宅が多い様です。


坂が緩やかになり、やがて平地となります。


国道が近づくにつれて、店舗が増えてきます。


沿道のモニュメントです。説明文を見てみます。

県道153号線を取り巻く環境には、沖縄県民の文化の遺産とも言える古い歴史や伝説があります。琉球初代の王舜天王(源為朝の子であると言われている)をはじめ、英祖王(太陽の子、テダコ伝説)、察度王(天女伝説)とおよそ200年間続いた三王統の根城である浦添城、伊祖城があり、かつての牧港(現在の牧港川のパイプラインが通る地点まで船が自由に出入りする事ができたという)は、琉球最古の貿易港として海外の物産や文化を受け入れる窓口で進貢船が行き交い、賑わいをみせた場所でもありました。また県道153号線は、かつては首里城から牧港への馬車道でもあり、尚巴志によって三山(北山・中山・南山)が統一された時には首里城への宿道となっていました。そういう歴史上の起点に位置する事から、県道153号線を歴史の道と位置づけられます。このモニュメントは「琉球史のあけぼの」を象徴してつくられたものです。


県道153号線は、牧港(北)交差点で、国道58号と合流し、終わります。
正面にマクドナルド牧港店が見えていますが、この店舗は、1976年のオープン当時、月間売上、週間売上とも世界一の記録を出したそうです。


ところで県道153号線、素直に走れば、先ほどの、マクドナルド前の交差点で国道58号に出て終わるのですが、実は県道指定されている道路はまた別で、先のモニュメントが角にある交差点を左折します。また、王府時代の国頭・中頭方西海道は、この交差点付近で右折し、国頭方面を目指します。


こちらは、国道58号の前身、戦前の指定県道那覇名護線の跡で、また、王府時代の、那覇から国頭に至る、国頭街道の跡でもあった道です。復帰前、軍道1号線が米軍によって、現在の道に付け替えられる前までは、もしかすると、この道が軍道1号線だったのかもしれません。
現在は国道の裏道になっています。


旧県道はそのまま直進しますが、県道153号線はここで右折します。
なぜこんな複雑なルートが県道指定されているのかですが、現道の、モニュメントの有る交差点から国道58号までの区間が開通したのは割りと最近の事の様で、それまではこの指定路が本道だった為、という事みたいです。


右折後直進します。この道に、こちらが県道指定路である事を主張する様に、六角形の県道標識が立っています。


こちら牧港交差点で、国道58号と合流し、県道153号線は終わります。



県道153号線バイパス


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