ヒジガービラまーい

ヒジガービラまーいは、守礼門から金城ダム敷地内まで設定された散策路です。以下説明文より。

ヒジガービラまーいは、琉球王朝時代の古い道路をたどりながら、地域の歴史や文化遺産に接し、楽しく散策ができるように整備された散歩道です。この散歩道はヒジ川橋から守礼門に至る、およそ1.8kmの道路にあるヒジ川ビラ(石畳道)、御茶屋殿内跡(王家の別邸)、雨乞嶽、崎山馬場跡などの史跡を辿る様に整備されています。
道しるべをたどっていくと、地域の歴史や文化の跡が、身近な所に刻み込まれている様子を見る事ができます。


守礼門−崎山馬場


ヒジガービラまーいは、守礼門から始まります。


守礼門を出て左折して、首里城木曳門の前を通過し、T字路を左折します。右折すると、すぐに、島添坂(シマシービラ)から金城町石畳道方面に抜けられます。


首里城の裏手を通ります。


この交差点を左折すると、崎山馬場ギャラリーです。ヒジガーまーいは、崎山馬場ギャラリーとしばらく重複しています。
道なりにUターンする様な形で、右に降りると、赤マルソウ通りです。


崎山馬場跡
崎山馬場ギャラリーとほぼ重複しています。


崎山馬場ギャラリーに入るとすぐに、遊歩道は、崎山遺跡から崎山公園内に入ります。


崎山公園です。崎山御嶽でもあります。、崎山町の地理についての説明文があります。

崎山町は首里城の南東に続く町で高台にありますが、凹んだ平地に位置しているため、昔から水の豊富な土地でした。隣町の鳥堀と赤田を加えて「首里三箇」と呼ばれる庶民の町でした。また、廃藩置県以降、豊富な水を利用して泡盛の一大産地となっていきました。しかし、第二次世界大戦以降泡盛工場は減り、崎山町には1軒しか残っていません。
ここ崎山公園(崎山御嶽)がら雨乞嶽、御茶屋御殿跡へと続く稜線は断層によるもので、一番高い雨乞嶽の丘(標高132.9m)と、南斜面の下方にあるヒジ川橋との標高差は75mあります。とくに雨乞嶽の丘は、首里の高台の東の端にあたるため大変見晴らしがよく、首里八景の一つ、「ウダンシュンセイ」と歌われました。これらの崖下は、「ハナンダー」「フチサ」と呼ばれ、古くからある墓を見る事ができます。


ここで那覇の街を見下ろしながら、ゆっくりと休息するのも良いかも知れません。


崎山御嶽(サキヤマウタキ)です。以下説明文です。

旧崎山村の御嶽で、王府時代、高級女神官であった、首里大阿母志良礼がお祀りを司りました。境内は、察度王の子であった崎山子(サキヤマシー)の屋敷跡と言われ、古い瓦の出土する遺跡としても知られています。
拝殿に当たる門は、1865年に木造の瓦葺から石造切妻型のアーチ門に改造されましたが、沖縄戦で破壊され、今ではコンクリートづくりとなり、昔の姿を偲ぶことはできません。


崎山公園を抜けて、少し坂を下ります。そのまま直進すると、崎山馬場ギャラリーの瑞泉酒造横に出ます。


崎山樋川(サキヤマヒージャー)です。以下説明文です。

王府時代、年中行事の折には、崎山御嶽とともに、高級女神官であった首里大阿母志良礼(シュリオオアムシラレ)の参詣がありました。
また、良い方角(恵方:えほう)が巳(南南東)にあたる年には、元旦に王様に献上する若水が汲まれました。
(若水:元旦に初めて汲む水)


遊歩道は、崎山公園を一周し、元の場所に出て、崎山馬場ギャラリーと合流します。



崎山馬場跡−ヒジ川橋


崎山馬場ギャラリーの、崎山公民館を越えた辺りから左折すると、ヒジガービラまーいの道に出ます。


路地に入ってすぐ、民家の間にある「末衛増嶽(シーマタキ)。以下説明文です。

旧山崎村にある御嶽の一つで、俗にウガングヮーと呼ばれています。もとは大きな岩があり、ちょっとした丘になっていましたが、一部が削られてしまいました。
以前はウガングヮーの横に井戸があって、ウマウィー(馬追い)の後、馬に水を浴びせていたと言われています、


暫くの区間は、石畳で整備されています。


石畳は、コンクリートブロック塀にもマッチしている様です。


T字路に出ても、道路に、琉球石灰岩の道しるべが打たれているので、それを辿りながら歩きます。


坂を登ります。


無線のアンテナのある建物を右に曲がると、整備中の公園があります。


御茶屋御殿石造獅子です。以下説明文より。

1677年に造られた王府の別邸御茶屋御殿にあった石造りの獅子で、火難をもたらすと考えられていた東風平町富盛の八重瀬岳に向けられていました。
18世紀、文人として名高い程順則(テイジュンソク)が、御茶屋御殿を詠んだ漢詩「東苑八景」に「石洞獅蹲(セキドウシソン)」と記され、御殿を火災やその他の災厄から守る獅子が称えられています。
もとは現在の首里カトリック教会の敷地にありましたが、がけ崩れの恐れが生じたので、現在地に移しました。


雨乞嶽(アマゴイタキ)
以下説明文より

雨乞いの行われた御嶽(ウタキ)は沖縄各地にありますが、ここは俗にアマグイヌウタキと呼ばれ、干ばつの打ち続くときに、王様がみずから家臣たちを率いて、この御嶽で雨乞いの祈願をされました。
マーニ(クロツグ)の生えた小さな丘を、低い石垣で丸く囲んで聖域とし、石敷きの壇に香炉が設けられていました。ここから南西方向への眺望の広がりがみごとで、首里八景の一つとして春雨の合間に雨乞いの丘からの眺望が素晴らしいとうたわれています。


現在南西方向は木が生い茂り、眺望は開けませんが、北の方は、首里の街の広がりがわかります。


再び小道を進みます。


首里カトリック教会です。ここは御茶屋御殿跡だそうです。以下説明文より。

御茶屋御殿(オチャヤウドゥン)は1677年に造られた王府の別邸で、国王が遊覧し、冊封使などを歓待したところです。また、1683年にやってきた冊封正使汪揖(さっぷうせいしオウショウ)は、首里の東にあるので、「東苑」と名づけました。
御茶屋御殿では、茶道、生花、武芸などの様々な芸能が行われました。さらに、ここに遊んだ文人遊客によって、程順則の「東苑八景」など、多くの詩や琉歌が残されています。
沖縄戦の後、御殿跡は首里カトリック教会となり、苑内の菜園跡は城南小学校になっています。昔を偲ぶものとして、南側斜面の岩陰に石造りの獅子(全長1.6m)が修復されて残っていましたが、がけ崩れの恐れが生じたので現在は雨乞嶽の近くに移設されています。


少し戻って、階段を下ります。


途中で家と家の間の狭い路地を抜け、道路に打たれた道しるべにそって歩きます。


国吉比屋(クニシヌヒャ)の墓
以下説明文より

国吉比屋は15世紀頃の人で、査姓国吉家の始祖になっています。景泰年間(1450〜1456)に真壁間切国吉(現在の糸満市国吉)の地頭職に任じられました。また、家譜によれば、中城按司護佐丸の子、盛親(セイシン)をかくまって養育したとも伝えられています。
もとの墓は、住吉町(現在の那覇軍港)にあり、儀間真常の墓と隣り合っていましたが、戦後アメリカ軍によってその場所を接取されたため、新たに墓を現在地に建立しています。
さて、国吉比屋は、18世紀の中頃、田里朝直(タサトチョウチョク)によって創作された組踊り「義臣物語」に主人公として登場します。お話では、国吉は自分の主人に忠節を尽くし、その仇鮫川按司を狙いますが、失敗。ところがその鮫川按司にその忠節を称えられ、ハッピーエンドをむかえるというものです。


一旦先ほどの階段に戻ります。
儀間真常の墓(麻氏一門の神御墓)です。以下説明文から。

儀間真常は、1557年に垣花に生まれました。1593年に真和志間切儀間村の地頭に任じられ、1624年に親方に叙せられ、1644年88歳で没しました。
真常は、1605年に野国総管が中国からもたらした甘藷(サツマイモ)をもらいうけて、その栽培普及に力を注ぎました。
また1609年の薩摩侵入後、捕虜となった尚寧王につき随って鹿児島に赴いた際、木綿の種子を沖縄に持ち帰って、その栽培法と木綿布の織方を広め、さらに中国から砂糖製造の技術も導入し、国中に広めました。これらの功績から”沖縄の産業の恩人”と称されています。
もとの墓は住吉町にありましたが、戦後アメリカ軍の港湾施設として接収され、跡形も無く敷きならされたため、1959年この地に移転建立されました。現在の墓は1993年に建替えられたものです。


階段を下ります。


階段を下り、再び石畳風の道が始まりますが、私の行った時には、この先でがけ崩れがあり、通行止めとなっていました。


迂回して、また道しるべのある道に合流します。


崎山ハイツ自治会館。ここは崎山ハイツという住宅地の様です。


亀甲墓です。以下説明文です。

お墓の形が亀の甲のようになっているので、カーミナクーバカと呼ばれます。中国南部のお墓の影響を受けた形で、17世紀末頃から沖縄に普及しました。
墓の形はこの他に、破風墓も多く見られますが、もっと古い形の岩陰墓(チンマーサー)や掘込墓(フインチャー)もあります。


住宅地を通ります。この奥からヒジガービラの石畳道に出られます。


ヒジガービラ(ヒジ川坂)です。以下説明文です。

ヒジ川ビラは、琉球王朝時代に、首里から南に延びる幹線道路のひとつとして整備されました。作られた年代は16世紀頃と推定されています。首里崎山町を抜け、御茶屋御殿(東苑)と雨乞嶽の間をを越えて南に降り、金城川(安里川上流)にかかるヒジ川橋を渡って、識名馬場の東端を過ぎる坂道を登り、さらに南の識名の御殿(南苑/識名園)に通じています。
ヒジ川の名は、ヒラ(坂)の西側にある古くからの湧水「ヒジガー」の名にちなみます。ヒジガーは見上げる岩の隙間から滴る水が鍾乳石をつくり、あたかもひげ(方言・ヒジ)のようになっています。
ヒジ川ビラは石を緻密に敷き詰めた石畳道で、地形に応じて巧みに曲線を描きながら、両側は石垣あるいは土留めの石積みを設けてあります。沖縄戦までは、この石畳道の両側に美しい松並木が続いていました。
現在、およそ100mに渡って昔のままの石畳と石垣が残っており、昔の様子を偲ばせています。


本当に昔のままを今に伝えています。生い茂る木もすがすがしい雰囲気を出しています。これでやぶ蚊がいなければいう事なかったのですが・・・。


石畳から、細い、急斜面のわき道があります。ヒジガーへはここから入ります。


ヒジガーです。説明文によると、崖の下に大きく垂れ下がる鍾乳石から水が滴り、その岩がひげのように見えるのでヒジガーとよばれる様になりました。このあたりの地名にもなっています。という事です。すこし違う様な気もしますが、でも、確かにひげの様にみえますね。
昔清明祭(シーミー)などで識名方面に出かけた首里の人たちが、その帰りに岩から滴る冷たい水で喉を潤し、一服する光景がみられということです。
だそうです。現在はやぶ蚊と、隣接する民家のワンちゃんが大歓迎してくれます。


再びヒジガービラに戻ります。


コンクリートブロックという現代の構造物が見えてきました。


金城ダム通りと交差します。


この先、金城ダム敷地内にも石畳道は続き、当時の石橋も残っています。


ヒジ川橋です。以下説明文よりです。

ヒジ川橋及び取付道路
ヒジ川橋は、首里崎山町にあった御茶屋御殿から識名園に至る途中の金城川(カナグシクガーラ)(現安里川上流)に架けられ、琉球石灰岩を用いた単拱橋(タンキョウキョウ:アーチが一つの橋)で、17世紀半ばまでにはつくられていたと考えられています。
全長13.18m、幅5.2mで、橋の中央が少し高くなり、三段の階段式になっています。欄干は、切石を利用した質素なつくりですが、見えない部分にほぞをつくって、巧みに組み合わせています。橋のアーチは円弧を用い、橋脚部は布積みで、その他はあいかた積みにしています。川床にも石を敷いて、橋脚部を川の浸食から防いでいます。
取付道路は穏やかな曲線を描きながら、勾配を調整して橋に取り付けられています。道幅は約2.6mで、橋の東側28m、西側18.5mが沖縄県指定有形文化財に指定されています。


ヒジ川橋から先、階段までの間、昔の石畳は、保護の為、地中に埋められているそうです。
階段を上がった先で、ヒジガーまーいは終わります。




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